2007年611日~615

 
 

6月11日
Sebree Island近くの島 →Russell Islandの対岸

West Arm最初のビバーク地近くで初めてカヤッカーに会った(Russell Island)
 
 朝起きると風は止んでいた。正面に見える湾は鏡のように静かだ。小声で「よしっ」と呟く。
 空は低い雲に覆われて霞がかっている。キャンプ場から出発した初日の天候によく似ていたが、いくぶんあの時より雨が降っているのが気になるところだ。でも風でパドリングを邪魔されるよりは全然うっとうしいことはない。
 荷物ができるだけ濡れないようにパッキングをすまし、今日は長いパドリングになりそうなのでしっかり朝食を食べておく。
 島の鳥達に安心して卵を温めてくれと別れを告げ、油のような海面にカヤックを滑り出した。
 視界はあまり良くない。むしろ悪い。
 右手に見えるはずの山の山頂はまったく見えず、正面の海は今すぐにでもホワイトアウトしてしまいそうなほど霧が出ている。いや、もはや雲が海面ぎりぎりまで降りてきているようだ。
 とりあえず数百メートル先ぐらいまでは見えるので、沿岸をなめるように漕いで距離を稼ぐことにした。

 グレイシャーベイは景色が雄大すぎて自分が進んでいるのかどうかさえわからなくなる。この時は霧で景色がぼんやりとしか見えないので、一漕ぎ、一漕ぎすることで見えていなかったものが見えてくるので、そういう意味では進んでいる実感があってよかったかもしれない。しばらくは海岸になだれ込む渓谷のような海岸線を進んでいく。
 途中、一本だけ目立つようなハンノキ(alder)があり、その枝に大きなハクトウワシの巣が見えた。後ろに見えるトウヒの森に雲が降りて、何とも幽玄な気配が漂う。海に流れ込む川はU字型に山肌を削りとって渓谷を作っている。おそらく今でこそ川だが、昔は氷河であったのだろう。漕いでいて飽きない。
  3 時間ほど漕いだところで後ろから機械的な音が聞こえてきた。エンジン音だ。後ろを振り向くと中型の遊覧船がやってきていた。この旅が始まってから初めて見る船だ。遊覧船は僕より沖を通って追い抜き、前方に見え始めた Tidal   Inlet に入って行った。僕はその手前にある小島との間にできた砂洲に上陸し、トイレ休憩をし、少し背伸びをした。
 引き波が砂州に押し寄せ、同じグレイシャーベイでも東と西ではずいぶんと違うもんだと思った。
 東はカヤックでしか行けないのでほとんど人の気配を感じなかった。だが、西を漕いでいると少なからずエンジン音などの人の気配を感じ、妙な安心感がある。クマの存在や、自然の中でのアクシデントに遭遇するかもしれないという不安があるのには変わりないのだが、やはり人の気配があるかないか…というのは少し緊張の具合が違うように感じた。
 キャラメルを口に放り込み、 Tidal inlet の入り口を横断してさらに沿岸を北上して行く。
 ここから先は今まではゴロタ浜が続いていたのに対し、一枚岩の絶壁が続いてゆく。
 いぜんとして天候は回復する見込みはなく山頂は雲に覆われ見ることができない。それがかえってこの絶壁の岩山を雄大なものに見せていて、カヤックの醍醐味は絶壁の海岸線を漕ぐことにある…とまで思っている僕には飽きない景観を作っていた。
 ある場所まで行くと、海鳥のコロニーがあった。よく見るカモメもそうだが、鵜やウミガラスなども飛び交い、その中に一際派手な、そして面白い鳥を発見した。  
「パフィンだッ!」
 ニンバスの名艇、「パフィン」の名前の由来となった鳥、エトピリカだ。英名でパフィン(Puffin)と呼ばれる鳥は 2 種類いて、それは日本にもいるものではピエロのような顔をしているツノメドリと、飾り羽が付いているエトピリカ(Tuffed puffin)がいる。どちらも北の海鳥を代表する鳥で、このような絶壁地帯のテラスに営巣する。テレビや図鑑でしか見たことがなかったので、野生の飛ぶ姿を見たのは感動だ。無理やり写真に撮ろうとしたが、さすがに望遠がないとキツイ…。何とか撮れたものも、よく見たら後ろ姿だった。がっかり…。

 そんなイベントが 1 時間に一回はあるようなパドリングだったが、かれこれ 6 時間は漕ぎ続けていた。岩山の絶壁地帯を過ぎると、今度は山頂の雪がいっぺんになだれ落ちているような場所に出た。言ってみれば、即席の氷河である。なだれ落ちた雪は波打ち際まで来て途切れ、切り立っている。その下から滲みだしたように溶けた水が沢となって流れている。スノーブリッジができていないかと上陸してみるが、あまりきれいなものはなく、むしろ危険なのであまり近寄らないことにした。
 それにしても、ここは岩と雪しかない海岸線だ。それでも浜にはクマの足跡がしっかり残っていた。
 ここで一息入れ、海を見ると今日ビバークしようと思っていたConnposite Islandがやっと見えた。普通に考えればだいぶ前から見えていてもおかしくない大きさの島なのだが、あまりの視界の悪さに目の前まで来てやっと確認することができたのだ。
 この島に一気に渡ってしまう。海はとにかくべた凪なので全く問題はない。狭い水路だったので潮流が気になるところだったが、漕いでみるとそれほど気にする必要もないようだった。わずか2㎞ほどの海峡横断だ。島の沿岸にたどり着き、沿岸を漕いで島の北側にあるだろう浜に向かう。島はほとんど岩礁帯になっていて、上陸できそうな場所は地図で確認したこの部分だけだった。
 島の北側に出ると予想通りゴロタ浜があった。ただ、フジツボの付着がひどいので岩に舫っておいて上陸し、様子を見ることにした。
 潮間帯が広いものの、苔や野イチゴの生えたテントを張るには最適な更地もあり、キャンプサイトとしては先ず先ずな場所だった。クマの存在が気になるところだったが、それらしき足跡は見当たらない。ムースのうんこが所々にあるだけだ。時計を見るとまだ 2 時だ。
「出発するか、留まるべきか…。それが問題だ」
 そんなハムレットのようなことを呟きながら、実際座り込んで迷っていた。予定ではここでビバークする予定だったのだから、それでも良かったのだが、この時の気持ちでは「まだ漕ぎたい…」という気持ちが強かったのだ。何より、寝る、食べる以外の目的でクマがいるかもしれない場所に留まるのが嫌だった。体も昨日休んだためか調子が良く、まだまだ漕げそうだった。
  15 分ほど悩んだあげく、先を急ぐことにした。
 カヤックの旅では行ける時に行く…が、鉄則だと思ったからだ。
 再びカヤックに乗り込み島を離れ、西に向かう。島の北からは、ちょうど Queen   Inlet とRende  Inlet が見え、Rende  Inlet の奥は見えなかったが、 Queen  Inletの方は奥がよく見え、氷河の後退した原野が火星のように思えた。とにかく、似たような景色が続いているにもかかわらず、そのスケールのでかさに圧倒され、遠くからでもまるで近くにいるような気分になってしまうから可笑しい。遠近感がむちゃくちゃだ。
 島から沿岸に移る際は、多少潮の流れがあったようで、時間がちょっとかかった。それに対岸に着いてからも潮が逆だったのか、妙に目の前に見える岬を回り込むまでに時間を使った。それが疲労が出てきた体には堪えたらしく、「あー、やっぱり休めばよかったかも…」などとぼやきながら先を進んだ。
 小さな岬を回り込んだところで水平線に何か浮いているのが遥か遠くに見えた。
「島…?船か?もしかしてカヤック?」
 霧と雲で対岸が見えないので先ほども何回か述べているように遠近感が狂っており、その浮いているものが大きいのか小さいのか、近いのか遠いのかさえよくわかないのだ。
 かまわずそのまま沿岸を漕いでいくと、その正体が次第にわかってきた。それは進めば進むほど数が増えてきたのだ。  
「流氷か…!」
  West arm の末端まではまだしばらくあるはずだったので今向かっているRussell  Island を越えたあたりから見られるのだろうと勝手に想像していたのだが、こんな手前からお見えとは、思いもよらなかった。
 最初は珍しいので拾ったり、カメラで撮ったり、眺めていたりしたが、次第に大きさも石ころみたいなものから学校の机くらい、タンス、ダンプカー並みと大きくなってきて、数も水面を覆い隠すほどに多くなってきた。

 

 流氷の隙間を縫うように最初は進んでいたものの、途中からはそれも不可能になり小さいものはそのまま突っ込んで漕いだりした。流氷はものによっては鋭利なものもあり、それはファルトボートからすれば脅威ではあったが、それほど心配するほどでもなくカヤックに当たるとバキバキとよく折れた。だが、調子に乗って流氷群に突っ込んでいると、「氷山の一角」というように下にはものすごいでかい氷が沈んでいるときもあって、「ドカッ」と、えらい衝撃を受けて止まってしまうこともあった。ケースバイケースでできるだけ避けて漕いで行くが、それほど避けることに神経を使わなくてもよいようだ。
 氷の海を漕いでいるなぁ~という実感があってとても面白かったが、次第に氷の存在がうざったく感じる以外の何物でもなくなってきた。
 単純に疲れており、とにかく目的地に早く着きたかった。
 2 時間ほど漕いでやっとRussell  Island と陸との間の海峡に入り、そこから更に漕ぐこと 1 時間半、時刻にして18 時頃に目的のキャンプサイトが見えてきた。
 へとへとになりながら漕いでいると、右手のデルタ地帯に人の影らしきものが見えた。
「ん…?」
 よく見るとカヤックらしきものも見えた。明らかに二人の人間が水際で何かをやっている。ここにきて、初めて他のカヤッカーを発見した瞬間だ。  
「俺以外にもカヤック漕いでいる奴、いるんだなー」
 そんな事を考えつつも、先を急いだ。何故なら会いに行ったところで僕には彼らと流暢に会話を楽しむほどの英会話能力がないからだ。どうせ言葉に詰まって気まずくなるのが目に見えている。
 しかし…せっかくこんな荒野で人間に出くわしたのだ、挨拶くらいしていくのが流儀というものだろう。ややUターン気味に彼らの場所に近づき、頭の中で何を話そうか、どう話せばいいかをシミュレーションしていった…。
 彼らはガイドらしき若い男一人に、パーマのおばさんという、不思議な取り合わせで、ちょうどコンロでお湯を沸かし、晩御飯を作っている最中だった。テントはどこに張っているのかと聞いたら、これから決めるという。なるほど、飯をテントサイトじゃない場所で食べてしまえばよりクマの被害を免れるわけである。このようなデルタ地帯の干潟なら、カヤックをあげておいても引きずれるから楽である。この方法はもらっておこう。
 今までどこにいて、これからどうするのかと聞いたのだが、いまいちうまく伝わらず、後半は案の定、グダグダな感じになってしまったので恥ずかしくなり、逃げるように彼らのもとを後にした。僕としては久しぶりの人に感動していたのだが、彼らからすればピックアップ船で数日前にやって来て、「なんだこのおかしな東洋人は?」という印象しかなかったのだろう。あー、はずかし~!
 気を取り直して予定ビバーク地に向かうと、ゴロゴロした岩が転がる浜しかなく、普通に考えて上陸するには適していない場所だった。それでもその沿岸を漕いで行くと、なんとか無理をすれば上陸できるんじゃないかという大きさの岩になってきた。体もよほど疲れたし、今日はここでイイかと思っていた時だ…
 奴が現れた。
 いきなり藪から出てきて、僕のほぼ目の前を草を食べながら歩いて来るではないか…!
 そう…。グリズリー君だ。
 落胆とともに、無性に腹立たしくなって、思わず叫んでしまった。  
「おまえら、いい加減にしろッ!!」
 何でいつも上陸しようと思っていた場所にばかり現れるのだ!狙っているんじゃないかと思うほど、いつもタイミングが良すぎる登場の仕方に怒りがこみ上げた僕はそう目の前のクマに叫ぶと、奴も驚いたのかしばらく僕を見た後、慌てるように藪の中に隠れてしまった。まだ若いらしく、動きが挙動不審ぎみだった。
 無論、こんな場所にテントを立てる気にはなれず、むしろこの島にはグリズリーがいることがわかり、対岸に移ってしばらくウロチョロしたのち、とりあえず沢が流れている干潟に上陸してさっきの二人がやっていたように波打ち際で夕食を食べることにした。
 潮は干潮から上げてくる時間で、カヤックをできるだけ上げておいて夕食の準備をした。体がすこぶる疲れており雨も降り出して体が冷えてくる。思ったように体も動かず、やっとのことでいつものマヨネーズご飯を作って食べるが、気持ち悪くてこの旅で初めて完食できずに残してしまった。この方法はクマ対策にはいいかもしれないが落ち着かなくて駄目だ。昼飯くらいしか僕にはできない方法だと悟る。
 またカヤックを出してしばらくビバーク地を探すが、いまいちいい場所が見つからず仕方なく先ほど夕飯を作った干潟に上陸してその潮上帯のアシの中にテントを張った。時刻はもう夜の9時をまわっていた。雨がひどく降ってきたのでタープを張り、その下にテントは張った。沢が両サイドに流れており、ムースやグリズリーのデカイうんこがすぐそばにあって動物の気配は濃厚だったが、うんこは古そうだったので大丈夫だろうと腹をくくり、そこにしたのだ。
 とにかく、無茶苦茶に疲れた。
  必要最小限のものだけをテントに入れ、適当に横になったらシュラフがずぶ濡れなのにもかかわらず寝むってしまった。
 途中、クマが気になり何度か起きるものの、数秒で再び眠りに入っていった。
 

612
Russell Islandの対岸 →Mt.Parkerの麓

最後の氷河、Reid Glacierの前で愛艇と共に(Reid Glacier)
 
 とっととこんな場所は移動したかったので、朝の 4 時半には起きて出発の準備を開始した。睡眠は十分とったし、昨日あれほど疲れたのにもかかわらず、疲れは残っていない。パスタを食べて 6 時半に出発した。
 天候は昨日と変わりない。むしろ霧は昨日よりひどいくらいだ。前方の視界はほとんど遮られ、笑えるくらい何も見えない。とにかく漕いで前に進むしかない。
 まったく見えないグレイシャーを目指して、とにかく漕いで行く。
 ここから West   Arm のドン詰まりであるGrand Pacific Glacierまでは、この旅で一番退屈だった。
 とにかく景色は見えないし、見えても変わり映えのない同じような風景が続くのだ。しかも逆潮に捕まったらしく、漕いでも、漕いでもスピードが出ず地図で見る以上に時間を要した。
 ここを漕いでいて唯一良かったのは、ハクトウワシが多くみられ、奴らも視界が悪いためか僕の存在に気づくのが遅く、ずいぶん近くまで寄ることができたことだ。
  3 年前に来た時はハクトウワシ(American bald eagle)は思ったよりも小さく、ちょっとがっかりした印象を受けたが、今回、多くのハクトウワシを見ることができて、この鷲のかっこ良さが際立った気がする。アメリカの国鳥だということもあるが、なかなか絵になる場所にいつもおり、その存在は確かに王者の風格を醸し出している。まぁ、実際のところは群れたワタリガラスと戦っても敵わないのだが、流氷の上に単独でとまっている姿は渋く、ダンディーだ。
 そんなハクトウワシを目で追っていると、いよいよ視界も良くなってきて対岸に巨大な氷の壁が見えるようになってきた。
 それがグレイシャーベイで最大規模の迫力をもつ Margerie Glacier であった。
 この水路の末端にあるGrand Pacific Glacierは、表面には土や岩を被っているためにこの時はただの崖だと思っていたのだが、実は氷河だということに少し視界が良くなって遠くから見た時に知るのだが、この時はいくら探してもそれらしきものは見えなかったのでこの海水に直接氷が落ちるMargerie  Glacier に目が行った。まさに絵に描いたような氷河が目の前にあるのだ。  
「ここが、グレイシャーベイの核心部か…」
 キャンプ場を出発してちょうど一週間が経とうとしていた。
 East arm Muir Glacier では少し裏切られた気持ちがあっただけに、ここで見る氷河はなかなかの感動だった。もっと天気が晴れ渡り、氷河の流れだしや山頂の方まで見えれば言うことはないのだが、このような厚い雲に覆われた氷河も、フェアウェザー山脈に囲まれたグレイシャーベイらしくて良いのではないかと、一人自分を納得させる。
 せっかくここまで来たのだからと、氷河に近づく。
 氷河が崩落した時の津波が怖かったが、それよりも目の前にあるグレイシャー・ブルーに見惚れてしまう気持ちが強く、流氷をかき分けてカヤックを進ませる。
 氷河の近くには崩落の時に飛び出す小魚を狙ってか、妙にたくさんの海鳥が飛び交い、とまっている。彼らの鳴き声と臭い、時々崩落する時に聞こえる雷のような音。目の前に広がる流氷の景色と肌に伝わる冷気など…、北の海で氷河を前にして漕いでいることを実感させる。
 とにかく写真を撮りまくった。
 悔いが残らないくらい、しつこい位、同じような写真を撮った。
 とにかく、ここにたどり着いたということを自分自身に言い聞かせたい気分だ。
 ほどなくして遊覧船が近付いてきた。彼らは今日の朝にBartllet coveを出発し、ほんの数時間でここにたどり着き、観光地の一つとしてこの景色を見ているのだろう。写真を撮るにしても彼らの方がいい写真を撮れることだろう。
 でも、ここまで自力でたどり着いたという達成感は知るよしもないはずだ。目の前に広がる氷河に対する神妙な気持は一週間かけてやってきた自分の方が上だということを勝手に僕は思い、彼らに場所を譲って氷河を後にした。
 妙な達成感に僕は浸っていた。これでとりあえず、この土地に来た目的は果たしたというような満足感だ。もしこれが物語であるならば、この場面で終わりにしてしまってもいいとさえ思えるほど。
 だが、現実はここから漕いで帰らなければならない。旅は終わらない。
 そういうことはよくよく自覚しているはずだったが、この油断によっていきなり事故を起こすところが僕の間抜けなところである。

 
 

 

 Margerie  Glacier を見終わり、最初の休憩地でトイレタイムを取っていた時だ。小便をすまし、意気揚々と出発しようとしてカヤックのコクピットを整理しようとしたとき、ポチャンという音がした。  
「?」
 よく見ると、水底にカメラが沈んでいる…!!  
「ぅわーっ!!何やってんだ、俺!!!」
 すぐに回収し、バッテリーとメモリーカードをだし、水分をふき取る。以前も同じようなことをして同機種のカメラを水没させていたのでかなり焦っていた。ある程度水分を拭き取り、バッテリーとカードを戻して電源を入れてみると…  
「う、動いた~」
 仮にも生活防水の機種だっただけに、何とか完全水没は免れたようだ。その後、ちょっとだけピントが合いづらくなる時があったが、問題なく使えた。浸かったのが海水ではなく、氷河の水で薄まった汽水だったのが良かったのかもしれない。氷河の写真を撮ったからもう思い残すことはないとまで思ったが、実際はまだまだ撮りたいものはある訳で、自分のウッカリ癖に気をつけようと、気を引き締めるいい機会にはなった。
 流氷の間を通り抜けながら、ひたすらカヤックを進ませた。
 ここで僕はある発見をした。流氷が多数海面に浮いているため、潮の動きが比較的わかりやすかったのだ。それまで、単純に引き潮、満ち潮で潮流は流れると思っていたのだが、場所によっては返しの流れもあり、一概に一方行に流れているというわけでもないようだった。事実、流氷は引き潮なのにもかかわらず出ていくものもあれば、奥の方に入っていくものもあった。つまり、多数の流れが存在していて、自分の行きたい方向に流れる潮をうまく捕まえることができるかどうかで、移動距離に差が出ると思ったのである。
 これは、実際かなりの違いがあることに気づいた。その後はできる限り潮を見て、自分の行きたい方向に流れる潮を捕まえながら漕いだのだが、やみくもに目的地に向かって漕ぐよりも、こちらの方が断然スピードが違った。べた凪だと思っていても、海面下ではものすごいエネルギーの移動があったようだ。満潮と干潮で沿岸を流れる潮の向きが違うので、ちょっと沖に出たり、岸に近寄ったりするだけでだいぶ違ってくる。これを知ってから、何となくパドリングがまた面白くなってきた。
 途中からだいぶ天候は回復して視界も良くなった。Tarn Inlet を何とか飛び出し、そのまま絶壁の沿岸を漕ぎ続ける。このまま真っすぐ漕ぎ進むと、グレイシャーベイでかつてもっとも雄大な氷河と言われたJohns Hopkins Glacierにたどり着けるのだが、現在そこに行くまでのJohns Hopkins  inlet は立ち入りが禁止されている。アザラシのサンクチュアリになっていることもあるが、もともと崩落が激しい氷河のようで、安全面での理由もあるのかもしれない。それを裏付けるように、 Inlet 入口の海面にはたくさんの流氷が流れだしていた。
 対岸には昨日も遠めだが見えたLamplugh Glacierが見える。最短ポイントまで行き、そこから一気に対岸に渡り、Lamplugh Glacierを目指す。
 水路の途中から、立ち入り禁止のJohns Hopkins  Inlet を眺める。ここは多数の氷河が一つの水路に流れ込んでいることもあり、かなり流氷が多い。他のグレイシャーベイのポイントと違って、ここだけは妙に岩と雪の占める割合、山の険しさが際立っている。立入禁止の為に妙に神聖な場所、聖域のようなイメージを沸かせた。
 Lamplugh GlacierはMargerie  Glacier に比べると見劣りするものの、海に直接落ちる氷塊はなかなか迫力がある。よく見ると氷河のすぐそばまで歩いて行っている2人組を確認できた。羨ましくはあったが崩壊雪崩が怖く、後ろから豪華客船が近付いてきて引き波も厄介だったので離れて先を行くことにした。
 今まで漕いできた場所に比べるとこちらの沿岸はまだ植物が見られず、岩と雪の世界だった。対岸からこちらを見ていた時も、「あそこにビバークできる場所なんてあるのか?」とさえ思ったが、来てみるとこの景色が意外に良かった。グレイシャーベイには珍しく丸いゴロタの浜があり、その一つにトイレ休憩で上陸するとテントが2張りあって大量のフードコンテナが岩の隙間に置いてあった。カヤックがないところをみると、トレッキング出来ているか、ちょっとカヤックで遠出しているのかもしれない。なかなかいいキャンプサイトだっただけに悔しかったが、別の場所を探すことにする。背後を岩山に囲まれ、なだらかなゴロタ浜の上はフラットになっていて雪が積もっていた。5月に行った知床のようで、ブッシュだらけのキャンプサイトよりはかなり安心できる。
 その後も何箇所かいい場所があり、どこでテントを張ってもよさそうであった。
 時刻は4時をまわっていた。いつもだったら、このままビバークしても良かったのだが、どういう訳か、ここまで来たら今日のうちに見られる氷河をすべて見てしまおうという気分になっていた。そこでこの先にあるこの旅で最後に訪れるであろう氷河、 Reid   Glacier を見てから、再びここに戻ることを決めた。
  Reid   Glacier は少しだけ奥まった入江(Reid inlet)の中にあり、地図で見る限りは Mcbride に似ていた。しかしあそこのようなバカみたいな潮流はなく、入り江には普通に入ることができた。入江の中には漁船が停泊しており、その前をグリズリーが悠々と歩きながら岩をひっくり返し、カニなどを食べていた。やはり、グリズリーはこのような開けた場所に多いようだ。ここで出会ったグリズリーはなかなか大きく、かなり近くまで寄っても僕に関しては無関心を装っていた。
 正面に見える氷河に向かって漕ぐ。両サイドは見事な放物線を描いて削られており、典型的なフィヨルドだ。あまりに見事さに口をアングリと開けながら馬鹿面で仰ぎ見てしまう。

 

 

  15 分ほど全力で漕いでやっと氷河の麓に到着。干潮なのでカヤックを上げ、そこから歩いて目の前にある小高い岩の上に登る。そこからは氷河の全貌がよく見ることができた。記念写真を撮り、すぐに降りて今度は氷河のすぐ下まで行ってみる。
 シルト状のよく足のはまる泥の上を歩き、氷河の近くまで来ると、氷河の下からコンコンと水が流れ出していた。深い蒼。見たこともないグレイシャーブルーの割れ目から水はものすごい勢いで流れていた。  
「んー、やっぱ、ここまで近づかなきゃな」
 見上げるような氷の壁。自分の足で近づいてみると、その氷河の大きさに圧倒される。干潟の上に点在する氷塊にはハクトウワシが一羽づつとまり、僕の方をずっと見ていた。
 しばらくしてカヤックに乗り、来た道を戻る。
 グリズリーはまだ岩をひっぺはがしていた。こんなにでかい動物が、そこらへんに普通にいるというのだから不思議な感じだ。

 星野道夫さんは電車の中で、「こうしている間にも北海道ではヒグマが歩いている」ということを想像していたようだが、その逆に目の前に野生の熊が歩いているというのもまた何とも現実味のない世界に思えた。ある意味、氷河を見たというよりもこのように生きたクマと対峙している方が、今このグレイシャーベイにいるということを実感できたかもしれない。
 

 キャンプサイトに戻ると、この日だけのお楽しみが待っていた。それはこの旅で唯一持ってきた一本のビール。こいつを West   Arm の末端まで行ったら開けようと思っていたのである…!
 ある意味、氷河の氷の飲むオンザロックよりも楽しみだったかもしれない。
 いつものごとくテントを張り、夕食の準備をすると、米が炊けるまで時間がある。ついに来た瞬間だった。  
「プシュッ!」  
「グビ…グビグビグビ……!」  
「う、ウメェーッ!!」
 なんと言っていいか知らんが、とにかくこの時のビールは最高にうまかった!超美味い!!とにかく雪でよく冷やしておいたし、一週間以上も大好きなビールを我慢していただけに、もうこの旨さといったら筆舌しがたく、感無量の大満足の、とにかくグレイシャーベイ最高!といった感じだった。
 氷河も見れたし、ビールも飲めたし、ここのキャンプサイトもなかなかきれいで良かったし、クマの恐怖は依然としてあるものの、それほどこの場所は気にする必要もなさそうなので、とにかくいい気分でこの日は就寝することができた。

 


 あとはキャンプ場まで帰るだけなのである。旅が終わるのはさびしいが、早くこのクマの恐怖から解放されたい…という気持ちもあり、なんだか自分の心理がどっちを向いているのかわからない状況であった。
 
 

613
Mt.Parkerの麓 →Mt.HughMillerの麓

フカフカの苔の上に、日当たりが良ければ野イチゴが花を咲かせていた
 
 比較的のんびりした出発。起床は5時だったが靴下があまりにも臭いので急遽沢の水で洗うことにしたのだ。
 昨日知った潮流に逆らわない漕ぎ方を実践しながら南下する。
 Reid Glacier の入江を沖から通り過ぎる。昨日は近すぎて全景を見ることができなかったが、遠目から見ると見事なフィヨルドを見ることができた。これで氷河はしばらく見納めだとしっかり目に焼き付けておく。
  しかしだ。後ろを見て驚いてしまった。


 真後ろにはJohns Hopkins Inletがあるのだが、大小さまざまな氷河が流れ込んでいるのが見て取れる。昨日も聖域のような雰囲気が漂っていたが、遠目に見るとさらにその迫力がじわじわと実感できる。そして隣に遥か遠くに見えるTarn Inletを見ると水路前面の岩山の背後にある山脈の間を、流れるように広大な氷河が存在しているのである…! 
「あれが、パシフィック氷河の正体か…!」
  愕然としてしまった。
 昨日は雲に覆われていたので目の前にある汚い氷塊しか見えなかったのに、その奥にはものすごいスケールで氷の河が山々を沈めるが如く流れていたのである…!
 名前の割にははっきりしない氷河だと思っていたが、あまりにでか過ぎて確認できていなかっただけなのだ。  
「大陸の自然は… すげぇなー」
 日本という島国では絶対にありえない風景を目のあたりにして、僕は自分の小ささをやっとここにきて自覚するにいたった。
 日本の自然は確かに素晴らしい。春夏秋冬の季節があり、箱庭のような小さな土地に、さまざまな環境が用意されている。それに関しては何も言うことはない。
 だが、大陸に存在する自然とそれは、また全くの別物だ。
 それはそれ。これはこれ。
 日本の自然が素晴らしいからと、外国に飛び出ずに果敢な青春を日本だけで過ごすのは、この時代において全くもったいないことだと思う。
 比較的、年を取ってからこれを知ってしまった僕だが、もし若い時に知っていたらいったいどうなっていただろう。僕の世界観はどう変わっていただろうか。若者は海外に出た方がいいとよく著名人たちが言っているが、まったくその通りだと思った。
  こんな自然をフィールドにしてアウトドアを行っている欧米人の、アウトドアに対する意識の高さ、技術、道具の開発力を理解したような気がする。
 週末のごく少ない休暇に近場で遊ぶ日本のアウトドアに比べ、長期の休暇を取って小型飛行機で辺境の土地に行ってアウトドアを家族ぐるみで行うような欧米人と比べれば、そのスケールの大きさは住む土地に比例しているかのようだ。
  もっと、でかいことを考えないと。自分のミミッチさをこの氷河を見た瞬間に色々と考えた。
 

 
  この日予定ではFrancis Island というところまで行くつもりだった。
 しかし地図上で見る限りかなりの距離である。出発時刻も遅かったし、今日たどり着くとはとても思えなかった。とにかく南下し、いいところがあったらそこに泊まり、最終的にビバーク地が見つかりそうもなければ無理して行こうと考えた。
  グレイシャーベイには何箇所か島に囲まれた内海があり、その一つがScidmore bay だ。その湾に入る水路が満潮時になると現れる場所に行ったのだが、どうも潮が満ちておらず通過することは出来そうもなかった。しかたなく水路に入らず内海を作っているGilbert Peninsula Islandの沿岸を漕いで行く。
 朝はそれまでと同じような曇り空だったが、次第に晴れ間が出てきて、昼頃にはすっかり青空になっていた。 West Arm に来てからはずっと曇りが続いていたので晴れたのは初めてである。それまで見えなかった山頂が姿を現し、対岸には来た時に漕いできた絶壁の岩山を見ることができた。青空をバックにそれらの山々は白い雪をかぶって何とも雄大にそびえている。目の前にも滝が現れたりして、なかなか面白かった。
 グレイシャーベイの真ん中、ちょうど先ほどあげた Scidmore bayの入り口付近に Bluemouse cove という水路があり、地図によるとそこにレンジャーステーションがあると記述されている。それが前々から地味に気になっており、とくに用事もないのだがどんな所か興味があったので行ってみることにした。
 Bluemouse cove に入ると予想通り海面は静かになり、沿岸にはトウヒではなくてハンノキが多くみられる景観となった。遠浅のシャローが広がり、草原が広がる。気を良くして進んでいると右手に人工物が見えてきた。  
「あ、あれか…」
  水上に浮き桟橋があり、その横に筏が作られ簡易のプレハブハウスが建っていた。クマの襲撃、環境への配慮なのか、それがとりあえず地図に描かれているレンジャーステーションだというのはすぐにわかった。特にビジターセンターなどがあるわけではないようで、レンジャー達の派出所のようなものなのだろう。がっかりする事でもないのだが、とりあえず独り気を落とし納得して先を行く。
 Scidmore bay の静かな海面を割るようにカヤックを進める。
  シャローを漕ぎ抜ける。もちろんこの辺りにも潮流があり、それが海面が静かであるにもかかわらず意外に速く流れていて面倒くさい。沿岸にはタンポポが咲き乱れ、日差しも強くなってきたのでほのぼのした雰囲気になっていたが、パドリングを休めるわけにはいかなかった。
  Scidmore bay を抜ける頃、手前の砂利浜に上陸する。
 ハンノキの上にハクトウワシの巣があったので観察するつもりで上陸したのだが、そこが意外にもなかなかキャンプサイトとして良さそうであった。島だし、フラットな地形で背後の雪をかぶった山脈も景観が良く、ここでテントを張ろうか迷った。しかしクマのうんこがやたらと目につき、目的地のFrancis Islandにもまだかなり距離があったので、漕ぐことにする。
 昨日漕ぎ過ぎたのか、それとも気が弛んだのか、妙にこの日は疲れ、すでにパドリング自体も飽きていた。止められるものならすぐにでも止めたかったが、気持ちの良いテントサイトもなく休むにしてはまだ距離が稼げていなかった。
 

 

 こういう時には何事もうまくいかないようで、島から対岸に渡ってからも潮流をうまく捕まえることができずにジグザグと流れを求めて漕いで行くものの、上手くいかず痛くなってきた腰にイライラしながら黙々とパドリングを続けた。
 カヤックの旅は好きだけど、だからといって常に漕いでいるのが楽しいわけではない。面倒臭かったり、辛いこともある。この時はまさにそれだった。
 しばらく断崖絶壁のどうしようもない海岸を漕いで行く。
 やっとその断崖がなくなるか…という頃、前方にカヤックが 2 艇見えた。最初は自分が追い付いてきたのだと思ったが漕ぐうちに近くなってくるのでこっちに来るのだということがわかった。赤いデッキに黒いハル。  
「おっ!フェザークラフトだ!」
  ただでさえカヤッカーに会えたのが嬉しいのに、同じフェザーオーナーとわかり、なんだか顔がニヤけてきた。しかしここでも会って、会話をしたかったがいきなり漕ぐのを中断させるのは申し訳ないし、前回の二の舞になるのも嫌だった。すれ違いざまに「ハーイ」と軽く挨拶をかわす程度にとどめる。  
「あー、やっぱりせめて写真でも一緒に撮ってもらいたかった…!」
 2 人は男女で 40 代の男性に 30 代の女性といった感じ。二人とも赤のカフナに乗っていた。
 同じフェザーオーナー同士、どこから来たのか、上陸に適した浜の情報交換、どんな場所を今まで漕いできたか、何日間滞在するかなど、聞きたいこと、話したいことはいっぱいあるはずなのにそれができない、いや、しようとしなかったことが悔やまれた。向こうもこっちがフェザーだったことに興味ありげだったし、勿体ない事をした…。

 やっぱ、本当、英会話真面目にやろう・・・と、思う。
 彼らとすれ違った後から急に流れも追い潮になり、再び順調に漕いで行くことができるようになった。景色は良くも悪くもなく…といった感じで、キャンプしようと思えばできるけど、それほど素晴らしい場所とも言い切れない場所が延々と続いた。

 もうこのあたりまで来るとFrancis Islandに行くのは今日中には無理だと悟り(夜の 7 時まで漕げば着くだろうけど体力的、精神的に無理そうだった)、手前にあるGeikie  inlet の中にある名もなき無人島に上陸してビバークしようと思っていた。もうとにかく、クマの心配のない場所でキャンプがしたくて、そればかり考えてキャンプ地を探していた。
  グレイシャーベイは本当に風光明媚だ。こんなに美しい場所はなかなかないだろう。キャンプができたら気持ち良いだろうなぁ…という土地はいくらでもある。

 だけど、クマの存在がものすごく大きい。とにかくこの土地はクマが多いのだ。 
「そんなにクマクマって、大げさだよ」と、お思いかもしれないが、カヤックを漕いでいてこれだけ目撃しているのにテントを張って寝ている間に近くまで奴らが来ることが無いなんて、まず考えられないのである。

  2 人とか、大勢でいるのならばクマに対するアンテナがいっぱいあるから存在に気付きやすいし、クマ自身も人間の存在をキャッチして避けてくれるかもしれない。だが一人だとクマとお互いの存在を気付かぬままバッタリ出くわしてしまうことになったりして極めて危険なのだ。

 そういう意味でこの土地でのソロキャンプはかなり危険だ。ライフルがあっても危険性は変わりないだろう。僕がキャンプ中に熊に出くわさなかったのは運でしかない。事実、複数のパーティーで行っている欧米の人達は、何パーティーかクマの襲撃にあっている。もちろん、彼らの食料の保管方法が間違っていたり、女性グループが襲われることが多いことから化粧品などの匂いに誘われているなどの仮説もあげられるけど。
 だからとにかく、この時の僕はもう、熊のストレスに耐えきれない状況にあった。
 
  途中、面白い形状の浜があったのでそこに上陸してみると、ムースの形跡はあるもののクマの足跡もうんこもないことに気がついた。一応、ここもキャンプサイトの候補に入れておき、もう少し先にある無人島を目指した。
  案の定、「ここを曲がればGeikie  Inlet の入り口だろう」と思っていた岬を回ると、まだ先に越えなければいけない岬が見える。  
「もう駄目だ、ヤメタ」
  これで心が折れた。引き返して先ほどのビーチに上陸することに。
 偶然の産物ではあったがここの浜が思いのほか良く、岩山に囲まれているうえに海に面した岩礁帯があり、その上が実に景色がよくて夕食を作ったりするにも最適そうであった。苦労してでもキャンプ地はいい場所を選んだ方が気持ちがいい。なんと言ってもこれは本当の遠征、冒険ではなく、『グレイシャーベイ旅行』なのだ。気持ちの悪いところで無理やり一泊を過ごすくらいなら、こういう気持ち良い場所で寝たいというのが、心情だろう。そういう所でクマがいない場所を探すからこんなに苦労するのだろうけど…。
 
 浜の潮上帯までカヤックを運び、岩礁帯の上にフードコンテナと調理器具などを運ぶ。浜は遠浅になっているため、干満の差がでかいこのグレイシャーベイではえらく波打ち際から浜までが長かった。それでも泥の干潟ではなく砂利浜だから文句は言えない。
 テントを立てて着替えると、岩礁帯に行ってバーボンを飲みながら明日からの予定を練るために地図とにらめっこする。
 もうとにかく、氷河を見たことで僕のテンション、緊張は落ち気味で、それに輪をかけてクマのストレスが襲ってきて、とっととキャンプ場に帰りたいという気持ちが高まっていた。今いる場所からキャンプ場までは一日で帰れない距離でもないが、ちょっとキツイ。今現在の僕の気持ちの高ぶり、体力を考えると無茶な計画だ。帰れないこともないが、かなり体に無理を強いるパドリングになるのは簡単に想像しうる。だが、もうビバーク地をあれこれと物色するのにも疲れてしまった。今日はこのようにいい場所を見つけることができたが、明日はどうなるかわからない。漕ぎきれるところ、安心して寝られるところ…そういうことを考えると、もう帰れる距離にいるのだから、一気にゴールまで行ってしまおうという気持ちが心を蝕んできた。  
「よし…、俺はもう随分頑張った!帰ろう…!」
 そう決めると、だいぶ気持ちが楽になった。目の前に広がるべた凪の海を見ながら、軽く酔った僕はそう心の中で呟くとさっそく夕食の準備を始めた。
  Sea Otterが海を泳いで行く。鴈が編隊を組んで上空を飛んでいく。空は昨日までとは打って変わって青空になり、いくぶん傾きかけた太陽からはやさしい暖色の光が発せられて正面に見える残雪を残した岩山をオレンジ色に染めていた。
 その景色があまりにも美しくて、しばらくぼぉっと、見惚れていた。  
「世界はこんなにも美しいのに…」
  自分の中にあるグチャグチャとした思考と、あまりにもピュアな目の前の風景とのギャップに、自分の立ち位置がいまいち掴めない気分だった。
 こんなにきれいな風景が世界にはあるのに、もう一方ではゴタゴタした人間の営みも行われているのである。そう思うと、自分だけがこんな所に居ていいのだろうか?という、一方的な罪悪感と、焦燥感に捉われてくるのだった。

614
Mt.HughMillerの麓 →Leland Island

3年前と同じゴロタ浜に当時の記憶をよみがえらせる私(Leland Island)
 
  朝、テントから這い出るとあまりの太陽の眩しさに目をしかめた。昨日と同じく、いや、それ以上に空は晴れ渡り、気持ちのいい空気がテントの中に入ってきた。
  体は疲れていたが、あまりにも気持ちがよくて僕の中にあった疑心暗鬼的な思考もどこかに吹き飛びつつあった。 
「やっぱ、今日キャンプ場まで行くのはやめた」
  あれほど切羽詰まった感じで考えていた予定も、あっという間に予定変更である。僕の頭の中なんて、そんなものだ。 
「せっかくだし、思い出の島、 Leland island に行こう」
  グレイシャーベイを効率的に一周するのならば、このまま西沿岸を南下して、Icy Straitに出る手前でバートレットコブに向かうのが一番なのだが、それよりも途中から湾の中央に漕ぎ、海峡横断をして Leland Island に向かうことにしたのには訳がある。
 それは、 3 年前にこの地に来た時にこの島で 2 泊して南東アラスカのキャンプを堪能したからである。どうせなら 3 年後のその島で一泊しておきたい…という気持ちもあったのだ。

 East Armに行く途中はひどい雨で、干潮時だったこともあり印象がかなり悪かったが、今日なら晴れているし、到着する頃には満潮だから問題ないだろう。事前の情報ではこの島にもクマがいるかもしれないというものだったが、一年前の話なので現在も生息しているとは限らない。ま、クマがいたら北のSturgess Islandまで行けばいいさとたかをくくり、昨日のキャンプ場まで行く計画は破棄して島に向かうことにしたのだった。
  そんなわけで出発はとくに急ぐ必要もなくなり、朝食にパスタを食べてからは少しゆっくりすることにした。
 食事をする岩棚の上から海を見ていると、潮がものすごく引いて海底のいたる所にウニが見えた。ムール貝に覆われた場所を下って海の中に入ると、あるは、あるわ。バフンウニがくるぶしくらいの場所にゴロゴロ転がっている。そのうちの大きい奴を拾い、岩で割ってみる。物によってはそこそこの身が入っており、指でこそげ落として口に入れると、海の味にウニの香りが混じった。 30 個くらい拾えば何とか一人前のウニ丼くらいは作れそうだったが、旬じゃないのか身の量が少なすぎる。集めて食べる気にはなれなかったが、こんな浅い場所、しかも昆布や海藻に付着しているわけではなくて砂の上を大量に這いまわっているというのが驚きだった。

 舟を上げた波打ち際に行くとこれまたウニが大量に打ち上がっており、この海の豊かさを物語っているかのようだ。今回諦めてしまったが、行く所に行けば、かなりの魚が釣れたのかもしれない。
 そう思うと、海の魚介類を獲るのが無上の喜びである僕にすれば、かなり勿体ない旅だったのかもしれない。時々水面に現れるサケの子供のボイルを見る度にソワソワしたものだ。
 
  出発はかなりゆっくりと 9 時頃出発した。
 昨日、諦めた岬まで漕いで行き、その先にあるGeikie  Inlet を横断する。横断途中で昨日の宿泊予定だった島を見てみるが字の如く「とりつく島もない」島で、上陸できるような場所はなかった。昨日の決断は正しかったようだ。
 Geikie Inlet を横断し終わると、右手には巨大な岩山がそびえていた。Marble Mtn。あまりにも立派な一つの大きな岩が氷河で削られたのか、立派な岩山である。僕はロッククライミングはやったことがないけれど、この山を見ているとあまりのかっこ良さに登りたくなってきてしまった。マウンテンゴートでもいないかと山肌を眺め続けるが結局この旅でマウンテンゴートを見ることはなかった。

 代わりと言っちゃなんだが、浜を向こうからブラックベアが歩いてくるのが見えた。グレイシャーベイに来てからグリズリーはよく見ていたけど、クロクマは初めてだった。真っ黒で遠目には黒い塊にしか思えない。グリズリーに見慣れてしまってからではいまいち迫力に欠ける。安心してカヤックから見ているにしても、警戒心が強いらしく近くまで来るとすぐに藪の中に消えてしまった。
  Drake  island との間、 Whidbey Passage を通り抜ける。ここはWhale Waterになっていて、一時期はエンジン船が通過できないことになっている。しかし今は立派な航路なので時々漁船やクルーザーが通過していった。
 横断して島側を漕いで行く。ワイルドストロベリーにタンポポの綿毛が沿岸を覆い、それが対岸の雪をかぶった岩山と相性がいい。空も青空なので非常に気持ちの良い彩色である。
 この島の沿岸をひたすら漕いで行くと、昨日の最終目的地、Francis  Island が見えてきた。ここまで来るのに 2 時間もかかっている。昨日のあの体力の感じだと、ここまで来ていたら精も根も果てていただろう…。実際その島に渡ってみても上陸に良さそうな砂浜は見当たらず、無理してここまで来なくて良かったな~としみじみ思った(全く上陸できなかった訳ではないけど)。
 その島を後にし、さらにその先にあるWilloughby  Island に渡る。海峡横断が続くが、このあたりはべた凪で、潮流もそれほど感じなかったのでたいしたことはなかった。
 ただ、時々遠くの方からものすごい大きな音でクジラのブレス音がし、あたりを見渡すがクジラを見つけた頃にはずいぶんと遠くにいることがわかってがっかりもした。ちょうど近くにクジラの研究者なのか、スピードボートに乗った人が全速力でブレスの音に反応してあちこちに走り回っていた。
 Willoughby Island に到着し、沿岸をまたまた漕いで行く。ここまで来ると景色も変わり映えなく、トウヒの森に覆われた島と岩の海岸が続いて景色を見るのは飽きてきていた。遠くに見える雪をかぶった岩山達は、いつまでも飽きることなく見ることができたが。
  島の真ん中ありでグレイシャーベイに突き出た岬があり、そのふもとに上陸して流れ出る沢で顔を洗い、休憩とした。
 久しぶりに強い日差しに顔に浮いた塩がカサカサで、冷たい沢で頭と顔を洗うとずいぶんサッパリする。久々の真水はかなり気持ちがいい。ここから先には沢が流れ込む場所が少なくなるのでここでの行水は正解だった。忘れていた行動食を取り出し休憩がてらに口に入れる。

 ここから一気にグレイシャーベイを真横に移動し、 Leland island を目指すことにする。この旅で一番長い海峡横断だが、 2 時間半も漕げば着くだろう。カヤックに乗り直し、はるか沖に見える島を目指す。
  余裕に思えた海峡横断だが、さすがにこの部分は潮の流れが集中しているだけあって湾の真ん中あたりに来ると川のように潮が流れ、上げ潮と下げ潮が交り合って、複雑な潮筋を作っていた。
 突然舳先が右に向いたり左に向いたりして危なっかしい中を何とか横断する。
  途中、面白いものも何度か見ることができた。パフィンにもこの時会えたのだが、一番強烈だったのは、何やら目の前を獣が泳いでいるのが見えたので近寄ってみると、耳が見えた。ラッコかと思ったが、そうではない。シロクマが海を泳ぐのをテレビで見たことがあったので、「クマか?」と、思ったが、どうも違う。

 未だに確証は持てないのだが、あれはきっとムースだったに違いない。近寄ると潜ってしまって遠目にしか見えなかったのだが、ユーコン川を泳いで横断するくらいの遊泳能力の持ち主だ。このくらいの海なら渡ってしまうかもしれない。でも、かなり速い潮流が流れており、距離もかなりあるのでこいつら、どれだけ長時間泳いでいられるんだっていう話だ。水温だってかなり低いし、とにかく野生動物の生態というのは摩訶不思議なものである。
  島に着く前にトドのサンクチュアリであるSouth Marble  Island の南を通過する。
 トドは近くまで行って見てみたかったが、あまりの大群に追いかけられても嫌だし、もともとサンクチュアリで近寄ってはいけないという話だったので遠目からしか観察せず、まっすぐ目的地を目指した。
 トドの声はあまりにも「通る」のでどこに居ても耳に届き続けてはいたが。
 だけどそんな僕の気遣いをよそに、近寄ってきたクルーザーは島に乗り付け、しばらくトドの群れを観察していた。小型のボートを牽引し、デッキの上にはカヤックが数艇積載されており、何ともうらやましい限りの船旅である。それだけにSouth Marble Island に長くいられると、特に意味もないのに腹が立った。
  予定より早く、 Leland island には 1 時間40分ほどで着くことができた。後半、結構潮が流れており大変だったが、去年上陸した同じ場所に上陸し、ちょうど満潮だったのでその後の荷物の移動などは楽だった。
 出発初日に寄った時は知らない場所のように思えたが、満潮時の島の姿を見ると、 3 年前に来た時とほとんど同じ海岸線で正直ほっとした。 3 年前にテントを張った場所に同じくテントを張り、同じくカヤックを置いた場所にカヤックを置く。白い大きなハマグリの貝殻が大量に打ち上がったゴロタ浜と、その上に生えるハマハコベ(beach greens)、巨大な流木、遠くに見えるフェァウエザー山脈を眺めると、当時の様子がよみがえり、再びこの土地に来た事をしみじみと感じた。
 やっぱりまっすぐに帰らず、この島に寄ったのは正解だ。クマがいるようにも思えなかったし、自分の決断に満足していた。
  島を周る。色鮮やかな植物が生い茂り、なかでもカタクリとスミレを足して二で割ったような「Shooting star」を発見した時は感動した。その存在を知ってはいたが、ここに来て初めて本物を発見したからだ。たった 3 株しかなかったが、写真を撮りまくりこの可憐な花に逢えたことにも満足する。
 

  この島は南の極一部しか立ち入りができず、北部は海獣類のコロニーがあるのでサンクチュアリになっている。だからそんなに遠くまで出歩けないのだが、あたりを探索し、森にも入って昔の記憶を蘇らせることを楽しんだ。あまりにも変わりがないことがうれしい。
  違うといえば、当時はいなかった大量の蚊と、オイスターキャッチャーがテントの周りを徘徊して常に「ギャー、ギャー」とわめいていたことだ。よく見ると近くに卵があった。こいつ等は砂利のくぼみに卵を直接生んでいるので巣と言うにはあまりにもお粗末なのだが、気づきにくいので何を騒いでいるのかさっぱりわからなかった。「悪い悪い」と謝りつつ、ちょっとだけテントを移動した。
  巨大なハマグリの存在も新しい。
 3 年前、干潟を歩いていてものすごい勢いで潮が吹かれているのでどれだけ大きな貝がいるかと思って掘ってみると、あまりにも小さい貝が出てきたので驚いた。詳しくは 2004 年の遠征レポートを読んでもらいたいが、そんなわけで今回も大量に上がっている水鉄砲のような潮に関心は持ちつつも、どうせあの貝だろうからと気も留めなかった。
 しかしあまりにも大きなハマグリの貝殻があるので、必ずこの貝の生きた奴もいるはずだと、その潮が噴き上がる場所を入念に掘ってみた。すると、なんと出てきたのだ。その大きなハマグリが!
 こうなってしまうと僕の中で眠っていた狩猟本能が目覚めてきてしまう…。潮が噴き上がった場所をこれでもかと掘る。大きな石が埋まってなかなか掘りづらいが、根性で掘り起こしていくとやはりある!次々と掘りまくって 10 個ほど掘るが、こんなにあってもしょうがないので 3 個だけ拝借し、コッヘルに入れて塩抜きし、明日の朝食べてみることにした。
 やはりアラスカ、海の幸は馬鹿にはならない。海岸を歩いていても、普通に日本でワタリガニやイワガニの甲羅が落ちているように、ここにはアメリカイチョウガニ(ダンジネスガニ)、毛ガニ、ズワイガニ、そしてタラバガニなどの甲羅がうち上がっているのだ…。真面目にカニ籠やカニ網を仕掛けておきたいくらいだ。
 この日の夕飯はいつもの玉ねぎ炊き込みご飯にハマハコベを入れ、ツナ缶をおかずにして食べた。紅茶にはライムを入れてライムティーにする。残りわずかになったバーボンをあおりながら、久しぶりの Leland island 、最後のバックカントリーのキャンプを楽しんだ。

 
 

 

615
Leland island → Bartlett cove

強烈なブレス音とともに、不意にいつも彼らは現われた(Bartllet cove)

 潮位の関係で朝は潮が引きすぎて出発出来そうもなかった。
 おかげで僕は 8 時頃、やっとテントから這い出し昨日潮抜きをしたハマグリの身をむき、刻んで茹で、その中にパスタと玉ねぎ、ハマハコベを入れ、コンソメとバターを溶かした。即席のボンゴレみたいなものだ。
 グレイシャーベイをはじめ、インサイドパッセージに生息するムラサキガイは食用が禁止されている。それはプランクトン経由の中毒があるかもしれないからだ。だから二枚貝すべてがこれに関与するかもしれず、このハマグリも食えるのかどうか微妙だったが、構わず食べた。貝類特有の潮の香りがパスタになじみ、マヨネーズばかりのジャンクな味ばかり食していた僕には磯臭さが際立ったが、普通においしかった。コリコリした触感が久しぶりに感じた。

 しかしその後、腹を壊す…。貝が原因かどうかは不明だけど。
 12 時の出発するまで、暇でやることがないので昆布臭い干潟を歩き回ったり森の中に入ったりして遊んだ。干潟にはたくさんのイソギンチャクとヒトデが潮だまりにとり残されており、岩をひっくり返すと日本のギンポそっくりな魚が大量に這いまわり、釣り餌になりそうな太っといゴカイがニュルニュルうごめいている。種類はないが、生物の量は半端なく多い。

 この島の森はワタリガラスの縄張りらしく、たまにハクトウワシがやってきて上空を飛んだりすると、一斉にカラスがワシを追いかけまわして集団リンチのような状況になっていた。ワシもワシで「ぴぃ~、ぴぃ~」と、情けない声で鳴きながら逃げ回り、大空の王者の風格はまるでない。
 それまで、ひたすらに先を急ぐカヤックの旅で、あまり細かい生き物の観察や、何かをじっと観察し続けることが少なかったのでこういう時間は楽しくあっという間に過ぎていった。
  パッキングの終わったカヤックに潮が上がってきて、いよいよ出発できるようになってきた。風は追い風、天気は快晴、雲も珍しくない好天に顔をチリチリさせながら出発する。目の前の海面に小魚がいるのか、キラキラと光る海面めがけて次々にアジサシが飛び込んでいた。
  Leland Island の南部を出発し、そのまま直線で Stroberry Islandを目指す。距離としては昨日の海峡横断と同じような長さだ。問題は全く感じなかった。これまでの長距離移動を考えると、もうここから Bartllet cove までは目と鼻の先みたいなものだ。もくもくと漕いでいれば夕方までには着いてしまうだろうと思っていた。
  ただ、この旅で心残りがあるとすれば、それは鯨との遭遇、特にシャチを見たかった。
  のちの話でグレイシャーベイには小魚が入ってくるとそれを追ってクジラが入ってきて、その後シャチも姿を現すとのことだった。僕がいた時は小魚はとくに少なく、クジラもほとんど見なくてツチクジラの仲間か、イルカくらいしか見ていなかった。  
「あと、クジラさえまともな奴を見れれば、文句ないのだけどなぁ…」
  そんな事を考えながら漕いでいると、ラッコが大量に目の前に現れてきた。 Flapjack Island が近いのだ。ラッコは必ずケルプの森の近くにいるという先入観があるが、この時期のラッコはとくに関係なく、水深もかなり深い何もない場所でも群れで泳いでいたりする。突然目の前に浮上したかと思うと、僕の存在に気付いて驚き、潜っていったりする。こっちの方が驚いちゃうよ。
 でも好奇心があるのか、しばらくすると同一個体だと思うものが再び現れ、しばらくこっちを見た後、静かに消えることが多かった。
  そういえばラッコも随分と見慣れてしまったものだ。普通、女の子なら「キャーキャー!」と、叫んでしまいそうな珍しい動物なのに、その野生の個体を目の前にしても全く驚かなくなってしまった。
 ラッコは潜水中、スキューバーダイビングのように泡を出しながら潜るというのも今回知れたことだが、常に一緒にいたのでまったく珍しい存在ではなくなっていた。ただ、単体ではなくてこの海域ではたくさんの群れでいるというのが驚きではあった。
 カヤック、特にアリュート族が使っていたカヤックは戦前、千島が日本だったころは千島にアリュート人が連れてこられてラッコを獲るために使われていたようだ。三人乗りに代表される彼らのカヤック「バイダルカ」は、その目的上、スピードが必要とされ三人乗りになったんではないか…。北海道の新谷さんはそう推測していた。
  事実、ラッコは速かった。写真を撮ろうとラッコの群れに近づくも、全力で漕いでもまったく追い付けそうもなかった。そしてとても一艇だけでは捕獲できそうもない。昔のイヌイット達がこの小舟で海獣類を狩っていたというのは、よほど獣が多かったのか、彼らのテクニックがすごかったのかは定かではないが、どちらにせよ、現代のカヤッカーが考えていることより、遙かに卓越したカヤックの操船技術があったに違いない…と、ラッコに追いつかず息を切らしながら僕は考えたのだった…。

  そんな中、時々ではあるが遠くからクジラのブレス音が聞こえた。そして遠くに潮が上がり、黒い背中が「ぬるっ」という光とともに確認できる。明らかに大きなクジラ。ハンプバック、ザトウクジラだと思った。
  クジラの進行方向を予測して全速力で近づく。そして頃合いを待ってカメラを構える。だが、奴らの背中が見えるのは遥か遠くで、あまりにしつこく近寄るとすぐに尾びれを見せて深度潜水をして消えてしまった。逃げているのか、ただ単に泳ぐのが速いだけなのか?無関心なのか、興味があるのか?クジラは心が大きすぎて理解できない。
 いろいろと寄り道をしながら漕いでいたら、 3 時間かかってStroberry Island に到着した。おかしなことに島は異常潮位か何かで沿岸が浸食され、場所によっては崖崩れを起こして木々が海に倒れ込んでいた。まさに温暖化なのかもしれない。
 潮の引いた浜に上陸し、腰を伸ばした。
 この島は一応上陸もできるし、キャンプも可能だが、クマの密度が高いのでレンジャーはキャンプするのを勧めていない。名前からしてワイルドストロベリーでも多いのかと思ったが、僕の見た限り、そんなことはなさそうだった。
  島の沿岸をイルカと遊びながら漕いで行く。奴らも漕いで遊んでいる時は四方八方からやたらと呼吸音を上げながら近づいてくるのに、カメラを構えると忽然と姿を消してしまうのだ。その辺がやはり、野生動物なのかもしれない。僕のわずかな殺気というか、「我」に反応しているのだろう。

 この島の沿岸を漕ぎ切り、南に見える Yong Island に渡れば、あとはその島の裏側に回るとゴールの Bartllet cove である。正面に見える海は鏡のように凪いでいる。波といえば、時々隣の航路を渡っていく船が起こす引き波くらいだ。
  仲間から外れたのか、それとも単独で狩りに来たのか、一頭のシーライオンが隣に現われて泳ぎだした。
「ボシューッ!」という、強烈な呼吸音とともに現れてとてもこちらに興味がありげなのだが、一定の距離で間合いを取っている。やはり野生生物というのは他の動物とのかかわり方というのを心得ている。人間も見習わなければならない事だろう。人間は野生に関して、偏見と欺瞞に満ちているようだ。
  べた凪の海を余裕をかまして漕いでいるのも、それまでだった。途中で船の引き波を受けてから、一向に波が消えない。おかしいなぁと思っていたら、前方におかしな波紋があることに気づいた。  
「あれはなんだ?」
 そう思って近づいていったのが間違いだった。近づくとそれは、強力な潮流がぶつかってできた渦潮だったのだ…! 
「や、やべっ!」
  逃げようとするも、みるみる吸い込まれて進行方向を狂わされてしまう。沈み込んでしまうほど強力ではないが、場所によっては湧昇流などもあり、なんとも不安定なパドリングが続いた。地図を見ると確かにそこだけ根があって潮の速いこの辺ではなんか面倒くさいことが起きそうな場所である。釣り師の目から見るとそういう場所はおいしい場所なのだが、カヤッカーからすれば近寄りがたい場所である。ここも事前に潮流が速いから注意したほうがいいというのを聞いていたのに、目の前のべた凪に油断して忘れていた…。情報の意味が全くない…。
  何とか切り抜けてほっとする。最後まで気を抜くなという忠告だったのだろうか。
  その後は島の沿岸を漕いで行く。あまり沖に出るとまた複雑な潮流に関わりそうだったので、沿岸べたべたを漕いで行くことにする。ちょうどルピナスの花が沿岸に咲き乱れ、それはなかなか絵になる風景の中、漕ぎ進んでいった。
 しかしそれもつかの間、こんな所に来てもケルプがあり、すっかりケルプの森に捕まってしまう。  
「やれやれ、ここにきてケルプとわなー」
  そう思ってケルプの上をえっちら、おっちらかき分けながら漕いでいる時だった。 
 

 
「ブオッ、ブッシューッ!!」
 目の前に潮が吹き上げられ、クジラの背中が黒光りしながら盛り上がり、そして消えていった。
 正直、シャチを見るというのは諦めていた。時期的にまだ早いのではないかと薄々気づいてはいたからだ。だが、クジラの存在は感じていた。背後にブリーチングでもしたのか、ものすごい炸裂音と共に飛沫が飛び散っているのを目撃した時もあった。自分の持っているコンパクトのデジカメではタイミングが合ったにせよ、彼らの姿を確実に撮るのは至難の技だろう。

 だけどせめて、せめて彼らがジャックナイフで潜水する時に見せる尾びれの写真は撮っておきたい所だった。
  ケルプのおかげで奴は僕の存在に気づいていなかったようだ。急いでケルプ帯から這い出し、クジラの進行方向に向かって漕ぎだした。ゴールはもうわずかだ…クジラを撮るならこれが最後のチャンスだろう。そう思うとパドリングの力も強まった。
  2 分間漕ぎ続け、そろそろだと思ってカメラを構える。電源を入れてクジラが浮上するだろうポイントにカメラを向ける。ほとんど勘と運だ。
  ブオッという音とともにクジラの後ろ姿が見える。一応写真に撮るが真後ろの背中で、その上かなり遠い。デジカメのズームを精いっぱい伸ばすが、ゴマ粒ほどにしか映らない。機材の限界か?でも、撮りたいものは撮りたい。再び彼に向って漕ぎだす。漕いでいる時に彼が浮上したらカメラを構える前にチャンスは消える。あらかじめカメラを構えておくと彼との距離は広がっていく一方だ。
 遊んでくれるイルカと違ってクジラは無関心を装う。できるだけ近づいて写真を撮れるとなると、ほとんど彼らとの縁に頼るしかない。
 今回、僕と彼との縁は先ほどのケルプ地帯にいた時で切れてしまったようだ。
  ジャックナイフで彼は潜っていった。僕は数枚連続して写真を撮ったが、まぁ、なんとかそれらしき写真を撮ることはできた。絵としての価値はなさそうだが、思い出としてはそこそこ頑張った方だろう。思い残すことはなかった。 
「クマも見た。氷河も見た。クジラも見た。そしてグレイシャーベイもそろそろ漕ぎ切れる。思い残すことはないな…」
  シャチが見られなかったことや、魚を釣っていないことなど、細かく考えればやり残したことはあったが、この時は十分満足していた。すべてのやりたい事をごく限りある時間内ですべて行うことは難しい。もし仮にすべて行うことができれば思い残すことはないが、その代わりその土地への興味は薄れ、自分の中から忘れ去られていくはずだ。
 旅には多少、宿題を残しておいた方がいい。それは僕の数少ない経験からの考えだ。
 カヤックの舳先の先に、たくさんの船が見えるようになった。
  Bartllet   cove にたどり着いた。
 僕のグレイシャーベイのカヤックの旅 はひとまず、終わったのだ。